ずっと疑問に思ってきたこと
音楽、まあPops、
たとえばPerfumeの『ポリリズム』を百回聞きました、
これそんなに珍しいことでも異常なことでもないですよね。
映画、
たとえば『桐島、部活やめるってよ』を百回見ました、
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でも、何が違うんでしょう?
音楽を百回繰り返して聞くことと
映画を百回繰り返してみること、
何がどう違うんでしょうか?
一つには、時間の問題だと思います。
『ポリリズム』を百回聞いても7時間程度ですし、一日に30分8回ずつ聞いたら、2週間で簡単にノルマが達成できます。
それと比べると一本二時間の映画は、一日一回見たとしても3か月以上かかります。
時間的労力としては比較の対象にもならないほどの違いです。
でも、しかし、たとえばクラッシクのシンフォニーだと一時間を超えるようなものはざらにありますし、Popsを単曲でなくアルバム一枚としてとらえたとき、
一時間程度のものを百回繰り返して聞いた人なんて珍しくもなんともないでしょう?
こうなると音楽を百回繰り返した聴くことと、映画を百回繰り返してみることに、大した違いはないのではないでしょうか。
しかし、こういうことはアリかもしれません。
音楽はメシを食いながらでも車を運転しながらでも勉強しながらでも聞くことができるから、その他の日常活動の妨げにはならない。だからマーラーの『復活』を百回聞くことは容易い。
でも、『桐島、部活やめるってよ』を見ながら車の運転はできないでしょうし、飯食いながらだと多くの箇所を見落として、そんなの見たうちに入らないでしょ?
映画を百回見るという事は、映画を見ること以外をシャットアウトしないといけないのだから、音楽よりもはるかに敷居が高い。
(自分で書いておいて、ものすごく納得してしまったんですが)
つまり、
音楽を百回聞くことは、その百回のうちに相当の回数は真剣に聞いていなくて、右の耳から左の耳に聞き流しているという事なのかもしれません。
でも、そんだったら、映画だった3回も見れば、ストーリーなんてほとんど記憶してしまいますから、適当に見流していても大丈夫なはずなんですよね。
そんでも、さすがに車運転しているときにカーナビの画面で『桐島、部活やめるってよ』を見たりはしません。でも、部屋掃除しながらとか飯食べながらとか、電話しながらとか餅つきながら『桐島、…』を見るんだったら可能じゃないですか?
たぶん、こういうことだと思うんですが、
黒澤明がコンビ組んでいた音楽監督の早坂文雄と「映画に一番近い他ジャンルの芸術は、演劇ではなく音楽だ」という事で意見の一致を見たらしいんですが、
普通の映画の観客にはそういう風には思えないらしいんですね。ストーリーが分かってしまった映画を見ることは種を知った手品を見るように味気ない者らしいんですが、
映像の業界の人たちって、映像作品を音楽を聴くみたいに楽しむことができるらしいんですよね。
そりゃ制作する人たちは、同じ場面を繰り返し繰り返しチェックしなければならないので、百回どころじゃすまないはずなんです。そんでも興味の糸が切れないという事は、
まあ、そういう事なんでしょう。
そんで、いつも思う事なんですが、
『1mm』を二時間繰り返してぶっ通しで聞くことと、
『1mm』のPVを二時間ぶっ通しで見ることは、
どちらが 敷居が高いのでしょう。
私には、映像の方がはるかに妄想刺激しますし、解析の取っ掛かりも多いし、PV二時間の方が楽なんですね。
のっちの顔が怖い。
人間にとって人間の声って、大脳の聴覚域で特別扱いされているらしく、
私たちは、人の声にものすごく敏感に反応します。
人にとって他の人って一番気になる存在だから、必然的に私たちの脳はそのようにプログラムされたのですが、
でもひとたび肉声を電気処理した音にすると、その他のピコピコ電子音の旋律やリズムの中に埋没しがちになるんですね。
そんな理由から、『1mm』の歌詞、全然意味が分からない。
詞に注意が集中できないんですね。
基本的にPerfumeの曲って全部、声を電気加工しているから条件同じなんですが、
『マジックオブラブ』の歌詞って、真剣に聞かなくてもどうせこんなこと歌ってるんだろう、って多寡くくれるでしょ?
その歌詞に対応するように映像もわりに単純ですから、
「まあ、ラブソングだったら、こんな詞だろ」ってことで何の問題も脳裏に引き起こされないのですが、
『1mm』って、分かんないんですよね、ほとんど何もかも。
振付も分かんないし、女の子たちの表情からもはっきりした情報が得られません。
恋愛の成就こと言っているのか、人生の目標へにじり寄ることを言っているのか、何なのかよくわかりません。
「線路の上を走る電車に乗ってても、自分の行きたい場所に1mmも近づくことができない。本当にこの電車行先あってるんだろうか?電車降りて自分で歩かなきゃダメなんだろうか」
そんな歌詞の内容だろうかと思いつつ、何べんもPV繰り返してみてるんですけどね。
なかた氏がテレビのインタビューで、「歌詞カード見ながら曲聞くのはやめてほしい」的なことを言われてたのですが、
歌詞カードにしてしまうと、詞ってすべての言葉が同じ大きさ、同じ濃さで書かれてしまうので、意味が変わってしまうはずなんですよ。
聞き取りやすい言葉、聞き取りにくい言葉の濃淡を苦労して作り上げたはずなのに、歌詞カードののっぺりした活字で見せられると、そういう表現上の努力がすべて消し飛んでしまいます。
ちゃんと、言葉の濃淡を聞き取ってあげないと、悪いよなと思う次第ですし、
この濃淡の中には、PVの映像や、その中での女の子たちの表情や演技も含まれているはずなんですよね。
まあ、私たちが、『1mm』の歌詞をどう解釈するか以前に、主要スタッフたちが
いろいろ解釈している訳で、
そういう積み重ねられた解釈を読み取ることが、perfumeを聞く、もしくは見るという事なんではないか?
なかた氏が何思ってこの曲作ったか、彼は何を言いたかったかを考えるだけだったら、Perfumeじゃなくてなかた氏理解しようとしてるだけのように私には思われます。