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巡り巡るよ

何かを表現したかったら、何者かになりたかったら、個を捨てて無意識に降りていけ、

そういう態度って日本の伝統的なものですし、

フロントマンが口パクで微妙な踊り踊っているだけってのは、能がそうですし、歌舞伎も演劇パート以外の歌舞パートではそういうもんです。

パフュームは、特別声高に日本を体現しようとしているわけではないのですが、
気がついたら日本人の美意識を体現していたという稀有な例。



それと比べると、YMOって、ほんとに歪なことをやっていたわね。



「俺は天才だ」と自分で自分のことを思ったところで、他人から天才と認めてもらえなければ、

その人の個性、属性に、天才であることは加割らないでしょう。

天才で有りたくて自分はそう願っているんだけれど、そうなれない人という属性が認められる、
もしくは、もっと単純にバカであることが、その人の個性として認められることになります。



つまり、個性とは、自分で主張するものというよりかは、他人からどう見えるかの部分が大きいわけでして、


日本人は、日本というものがこういうものであると認識していたところで、外国人がそう思っていない場合は、それは、個性と言えるのだろうか?
だって個性って、他人との差異によって明白になるもんでしょ。
「私の個性は、手が二本と足が二本あることです」とか言っても、ほかの人も、基本的にそういう体の作りですから、
なかなか手が二本と足が二本あることは、その人の個性とは認められがたいものでして、
手が三本とかあると、それは個性と言えるんでしょうけれども。



逆に、外国人が日本に対してとんでもない誤解をしていたとしても、その誤解を正すことができなかった時点で、その誤解は日本の特性を形成しているとは言えないだろうか?


簡単に言うと、
「他人の誤解も自分の個性のうち。
それを排除せずに大きな度量で受け入れると、今まで気がつかなかった自分の個性に気がつくよ」
YMOというか、細野晴臣の凡アジア主義的音楽ってそういうもんなんでしょう。


日本人ってさ、自分の国がアジアで一番発展しているから、アジアの中では自分たちが一番白人に近いとか一番バタ臭いとか誤解しているんですが、
そんなもん、ベトナムとか香港みたいな欧米の植民地になったところと比べりゃ、日本ってむちゃくちゃ泥臭いアジアの国だったりします。

 
 


一聴一見すると、とんでもアジア的な大誤解なのでしょうけれど、
意外に、ここら辺に日本の国際化への鍵が隠されているんじゃないか、と自分も昔考えたりしたことがあります。


YMOが海外で受けていたのは、テクノとしてではなくトンデモアジアのオリエンタルなキッチュさ加減、という指摘をネット上で読んで、
さもありなん、と。
私も、テクノがどうたらという部分はYMOに関してはどうでもよかったんですわね、確かに。
中国ネタとかの部分が好きだったりしました。

んで、面白いのは、こういう曲やっていながら、坂本龍一は、中国について全然知らなくて、ラストエンペラー作曲するために泥縄式に中国音楽全集みたいなCD買って勉強したって話です。


YMOのとんでもアジアってのは、細野晴臣の持ち味、ずっと追求しているテーマなんでしょう。


まあ、そういうのと比べると、パフュームって「日本とは何か?」についてほぼ一切追求していないですわね。
ただそこに、日本人がいて、それが日本だ、と。

JPN(通常盤)

JPN(通常盤)

この清々しい居直りぶりと比べると、YMOのやっていたこと、もしくは細野晴臣のやっていたことってのは、「自分探しの旅」っぽい。




森高千里細野晴臣の昔の歌を歌っている。
98年。香港返還の一年後。

今見ると、森高千里ってあんまり華のない顔をしている。
このPVは映りのいい方なんですが、

今のメイクの進化からして、森高千里は、40超えた今の方が美人に見えたりする。






98年のフェイウォン。パクっていらっしゃる。


99年のCDについていたオマケ。




98年、森高千里、『東京ラッシュ』


98年、フェイウォン 『半途而廃』


99年、葵みのり 何かのAV情報誌に掲載されていたグラビア。今度は、メイクも表情もフェイウォンからのパクリ。

この数年後、蘇州で開かれた国際医学学会のキャンペーンポスターに葵みのりの写真が勝手に流用されていて話題になった。

人間、誰しも一人で生きてるわけじゃないので、こういう因果というか連鎖はあって当たり前。