ロックンロールの自殺者 と Perfume

ロックスターとはどういうものなのか、と考えるに、
デヴィッド・ボウイが40年前に説明し尽くしていることに気づく。

小幡績氏がおっしゃるとおりに、夜道では絶対会いたくないタイプのスターが欧米には多い。

この歌の歌詞、ロック愛好家は自殺予備群、と要約できるのですが、どうしてそうなるのかというと、

ロック愛好家は、基本的に自分を不幸と思い込む傾向があり、その不幸に対して救済を求めているもんです。
自分を不幸だと認識することって割と簡単ですから、理由なんかなんでもいいわけです。

「世界はあと五年で滅ぶ、こんな世の中に生まれてきた自分は不幸だ」とか、なんでもいいわけです。

そして、
ロックスターを救世主に見立てて、彼に自分の不幸を救って欲しいと思うのですが、
ロックスターっても、そりゃ確かに普通の人とは違うでしょうけれども、結局のところは人間にですから、奇跡なんて起こせません。
それだから、ロック愛好家はいつか必ず裏切られることになる。そりゃ、死にたくもなるわさ、ロックしか友達いないはずだったのに、ね。


「どうして救世主なのに、癩病に罹るんだ?治すのがお前の役目じゃなかったのかよ、騙したな!」
そういう少年に刺されてジギースターダストは死んでしまうのですが、

デヴィッド・ボウイは、そういうロックスターのエリートコースを架空の設定の中で演じるだけにしておきます。
そして、「という物語をレコードの中で演じるわたしは、ゲイのフリしてるけどそれは話題作りの為で実は女好きとか、お客様=金 みたいな身も蓋もないこと考えてるのさ」、みたいなことまで歌のネタにして、レコード聴く人を唖然とさせるのですが、

そういう露悪趣味的な曲のあと、全てが終わったあとに『ロックンロールの自殺者』が続きます。
基本的には全部嘘だけれど、少しだけは真実がある。
「君は独りじゃない、君と似たような人はたくさんいるし、僕だって似たようなもんだ」

ロックンロールの自殺者とはそんな唄なんですが、

実に知的で、どこまでが架空でどこからがリアルなのかがよくわからない、玉ねぎの皮むきみたいにキリのない唄なんですが、


ただ、この中ではっきりしていることは、
ロックスターは、キリストの代わりということです。


彼らの宗教伝統がああなんですから、スターやヒーローのあり方がこうなってしまうというのは仕方の無いことなのしょう。

そして、必然的に、不幸を呼び寄せる構造を持っているのですね。

どうして20世紀に西欧で無神論者が増えたのかと考えると、不幸の総量が減ったからでしょう。ハンセン病患者なんてもういないですしね。

宗教は不幸の別の呼び方と言えるかもしれません。

デヴィッドボウイは「スターは人の不幸を食って生きる」みたいなことを歌にしています。





それと比べると、日本人って、そういう宗教伝統持っていませんから、欧米に対する憧れというフィルターが曇ってくると、
ロックってよく分からなくなってきます。笑っちゃっていいのかな?みたいに思うことが増えるのですね。
実際、矢沢永吉のことお笑い系の人と思っている子供って多いでしょ?
尾崎豊も生きている時からギャグのネタでしたし、今となれば完全にギャグですし。

山上で説法する教祖にひれ伏するような習慣を私たちは持っていないんですから、笑うことしか出来ません。

そのかわりに
日本にある伝統といえば、
祭りでしょう、神輿でしょう。そういうものと地続きのアイドルのあり方というのに、私はものすごく寛げることをPerfumeで発見しました。

私たちPerfumeファンが、彼女たち三人に対して感じる親近感というのは、彼女たちが偶偶神輿の上に乗って担がれているのであって、彼女たちのカリスマにひれ伏しているわけではないからなのでしょう。

無論、彼女たちは、曳山や神輿の上に乗るために、一定の容姿を求められはしますが、
それは、別にむちゃくちゃすごいものである必要はありません。それこそ、隣村の美少女みたいな感じです。
才能?内面?ぶっちゃけ、なんでもいいんですね。
ただ、神輿や曳山に上るためには、ちゃんと身を清めて精進し、神輿や曳山の神聖を汚さないことは守ってもらわなくてはなりません。


私がPerfumeファンになるきっかけを作った『グリッター』のPV、あれを数回繰り返して見たときの感想が、
「彼女たちは巫女にみえる」というもの。

本来あるべきはずのものがぼっかりと抜け落ちており、ここには救世主はおらず、シャーマニズム的な巫女がいて、私たちの世界とかみさまの世界をつないでいる、


そういう印象を受けました。

ぼっかりと抜け落ちているもの、
それは、音楽とは自己表現の手段であるというエゴ、でしょうか。
ずっとロック文化が疑うこともなく半世紀信奉し続けてきたイデオロギーが、そこにはなかったのですね。

それは、私にとっては、新鮮でした。

Perfumeは神輿か曳山の上に乗っているだけ。そしたら神輿とか曳山って何よ?
中田ヤスタカ氏ですか?
いや、いや、Perfumeが乗っかっているものというのは、時代とか歴史の文脈みたいなものです。

才能あれば乗れるようなしょぼい神輿や曳山とはレベルが違う。

Perfumeファンにおっさんとかインテリが多いのは、この文脈読む力に長けているからでしょう。

なんでロッキンオンにPerfumeが取り上げられるのかと言えば、ロック文化の文脈にPerfumeって気持ちよく収まるからです。
私の場合は、Perfumeの文脈ってのは、ルネッサンス以降のヨーロッパが神の不在を天才で埋め合わせようとした、天才信仰への懐疑です。

モナリザよりもPerfume。私かなり真面目にそう思っています。

冷静に考えると、レオナルドダヴィンチって人類の歴史に直接なんの貢献もしてないんですね。
「神様がいなくても、こんなすごい天才がいれば人類は大丈夫」そういう役割を果たしているだけなのです。
天才とロックスターというのは、キリストの置き土産みたいなものでしょう。