長澤まさみが『キャバレー』演じてるそうです
イギリスの小説家・クリストファー・イシャーウッドの『good bye to Berlin』
を基にして、『キャバレー』ってミュージカルができたそうです。
Liza Minnelli Performing Mein Herr with Chair
それを基にして ルー・リードの『ベルリン』ってレコードが作られました。
その友達のデヴィッド・ボウイが影響を受けてベルリンに住み着いて、いくつか曲を書きました。
それとは別の流れで、Perfumeもベビー・メタルも『キャバレー』とは無縁では存在しえないのですが、
そういうのとまったく無縁と私が思ってた、長澤まさみが『キャバレー』だそうです。
演出は松尾スズキ。
【ゲネプロ30秒】松尾スズキ×長澤まさみ 伝説のミュージカル「キャバレー」が10年ぶりに復活!
たぶん、何かの間違いだと思います。
世の中終わりですね。
Perfume " TAKE ME TAKE ME " MIX
ミニマムにはミニマムの良さがあるというか、ミニマムにしない限り伝わらないものがこの世の中多すぎる。
三人の年齢って長澤まさみと大体同じなんですが、ほぼ十年前のパフォーマンスなんですが、
売春婦やってる人って全員が全員売春やってるようには見えないってのがリアルだとすると、この時のあ~ちゃんって妙にリアルな気がしてしまいます。
かしゆかとのっちはただしいはまり方してるんですけどね。
長澤まさみの方って、どうなんでしょう?
日本人は貧乏くさいのが好き
パフュームのファンからも感じられるのですが、
日本人は苦労話が好き。でも苦労の先の成功からの経済的豊かさに対して他者は、単にやっかみとも言えないような嫌悪感を示す。
これってつまり、日本人って、貧乏くさいのが好きなんだ、
言葉をもう一歩踏み込むなら、貧乏が好きなんだ、
そんな気がします。
かくいうわたくしも、いい年齢になってくると、家具のない四畳半一間の生活とか石油ストーブと玄米粥とかの生活がいいものだと感ずるようになりました。
日本人が伝統的に宮殿よりも茶室を愛してきた、というか日本建築史的には茶室くらいしかオリジナルなものを作り出してきていない。
贅沢壮麗な建築文化は中国と西欧からの受け売りに過ぎない、とか。
それに最近はシンプルライフとかミニマリストとかの追い風もありますんで、
私において、何がこのような貧乏くさい生活へのあこがれのきっかけになったのかというと、
ネットのおかげで音楽・映画・雑誌などに金を使わなくなったため、消費活動が極端に細り、金を使わないのが自分の中で当たり前になったってのがありますが、
その金を使わない娯楽の一つの支流として、ひなびた温泉地の素泊まり宿をネットで探して巡ることを秋冬に頻繁に行うようになったからというのが大きいです。
そういうところの宿って、四畳半とか六畳一間で、それ以外にほとんど何もないですから。んで、それでいいというか、それがいい。
ひなびた寂れた温泉地の格安のホテルや旅館を巡るのって、あんまり他の観光客と出くわすことはないのですが、
でもネットで読んでると、自分みたいなことやってる人たちっていっぱいいるんだなということが分かりました。
そういう人たちって、高い割合でつげ義春の愛読者だったりして、
貧乏とか、わびしさとか、ほの暗さとか、経済的苦しさに魅了された蛾のように、人気のない温泉にやってくるのですが、
ゲンセンカンって、源泉館という漢字があてられるのが妥当でしょうか。わたくし、学生の頃にはゲンセンの意味が分かりませんでしたけど、温泉よく行くようになると成程と思いました。
熱湯の源泉というよりかは、命の源泉の意なのです。
英語にすれば、Spring Of Life でしょうか。
「はじけるような恋」とつげ義春の描く肉欲は全然違いますけれど、あの曲のPVが持っていたほの暗い世界観ってどこかでつげ義春とつながってる、んでしょう。
明けたけど めでたくもなし おらが春
一年前のPerfumeの紅白は、オンエア時に見てたんですけど、
今回のは、完全にスルーでした。
紅白歌合戦を全く見なかったのは、これが初めてでも何でもないのですが、まあどうでもよかった。
さっきyoutubeで見たんですが、まあ、こんなもんでしょう。
『Flash』って楽曲に演劇要素ほぼないですから、舞台で大化けするようなこともないでしょうし。
紅白歌合戦があと何年続くのかわからないですが、テクノロジーによるこけおどし的パフォーマンスとしての小林幸子枠の後継者として存在感増してきてるのかもしれません。
それから、
新垣結衣の『恋ダンス』って何じゃ?と思い、しばらく調べていたんですが、
今回の『恋ダンス』ってPerfumeの先生の振り付けでした。
ほんとのところ、それ本当に流行ってたのかどうなのか、まったくわたしにはわかりません。
もし本当に流行ってたのだとしたら、Perfume的なダンスって世の中にまだまだ浸透していないだけで、人気の伸びしろってあるのかもしれません、
もしくは、本家のPerfumeの完成度が高くなりすぎて、「踊ってみた」「ちょこっと踊ってみた」「とりあえず真似してみたら思いのほか楽しめた」的な事が一般人には難しくなりすぎたゆえの『恋ダンス』需要だったのかもしれんと思いました。
何はともあれ、Perfumeの人気がしぼんでいく中で、こんなもんが流行ってるの?・・・的な苦い思いを感じました。
ところどころ、mikiko節とでもいうべき振付の言語的メッセージの強さ。気が付いたら心に言葉を刷り込まれてるような「やられてしまいました」感を感じる部分がいくつかありました。
最近、ベビメタを見ることの方が比較的には多いのですが、この『気が付いたら心に言葉を刷り込まれてるような「やられてしまいました」感』ってベビメタにはあまりないんですよね。
Perfumeはブスとかいろんな人がいろんなところでいってますし、自分もここで何度も書いたんですけど、
だったら、長澤まさみと新垣結衣にメンバー交代したらもっと良くなるのか?というと、ガッキーとPerfumeのかわいらしさって全然別のものだったのだよね、と、
まあ、はっきりわかりました。
今回は、こんなとこで。
10年前
去年 Perfumeは10周年のアニヴァーサリーだったのですが、今年もすえが近づき、なんか十年を振り返ると身の回りの世の中それなりに変わったのだなと思われます。
中高年に「この十年で何が変わったのか?」と尋ねると、大概が肉体の劣化老化なんですが、
世の中的には、どうでしょう?
10年前は、まだテレビを見て、その内容にいちいち毒づく不毛な習慣が自分には残っていました。いやなら見なけりゃいいのに。今では、家にテレビがありません。
そういえば、新聞も雑誌も読まなくなりました。
10年前は、次世代規格のDVDとして東芝とその他の家電企業が規格争いしていました。「消費者不在でこんなことやってるから中国企業に負けるんだ」と思ってましたら、案の定日本の家電業界ガタガタになりました。勝者のブルーレイにしたところで、ほとんど使う機会がありません。
「私は、70年代までの映画がきれいに見ることができればそれでいいのです。『ゴッド・ファーザー』を見るのにブルーレイの高画質は必要なのでしょうか?」
10年前は、こんな疑問を周りの人に聞いてみたものでした。当時は誰もはっきり答えませんでしたけど、必要なかったですね、まったく。
10年前は、ネットにクレカの番号入力して買い物するのをまだ躊躇していました。ほとんどAmazonも使いませんでした。今ではもう本屋に行かなくなりましたし、他にも訪れることのなくなった商店がいくつもあります。
そういえば、紙の本を読むこと自体めっきり減りました。
10年前は、20年前と比べると、ネットとITの技術が下々の民に普及したときだったので、世の中変わったなという実感がありました。だから、まだ世の中進歩するだろ、よくなるだろという楽観的な気持ちがどこかにありました。今では、一般人的に使いこなせるPCの機能が出尽くした感があり、もう今後は便利さを実感することはないのではないか、ただ自分の周囲ががちがちにアルゴリズムで構成される息苦しさだけが増していくのではないかと、ほぼ総悲観になりつつあります。
音楽とか映像のコンテンツの検索や利用の仕方は便利になりましたが、新しいものが出てきません。「アイドルと一緒にめぐる世界遺産のVR」みたいなものが出そろったら映像作品って打ち止めなんじゃないかな。
10年前も温暖化だとか食糧価格・資源価格の高騰とか世も末的な話は多かったのですが、今となってみると、全部嘘だったんじゃないか?悪徳業者の金儲けのネタだったんだろう?というようにしか思わなくなりました。
『エコ替え』とか、今思い出してもふざけた話でした。
そして、
イーロン・マスクが火星への移民団を募っているという話を聞いても、そこに全く明るい要素を感じません。地球だけだと人類滅ぶから他の惑星に分散させようという暗い話の要素しか感じられません。
10年前は、鉄板だと思われていた価値の多くが背骨折れたような気がします。
自分に関していうと北京以来オリンピックはほとんど見なくなりました。ノーベル賞も文系の方は冗談みたいな扱われ方です。文学賞はボブディランでぼっきり行きました。アメリカ大統領選挙もとんでもない代物でした。
国際化、文化、平和、教育、全部金儲けのための方便ですね。さらに言うと、金自体なんなんだろう?富って何なんだろう?
そういえば、今年の紅白の出場者名簿から和田アキ子が消えていました。五木ひろしと石川さゆりが最後の砦で、この二人が抜けたら所謂紅白は終わりですよね。まあ、それでいいんですが。
ネットでいろいろ調べると、
スマホが普及したというのが多いです。自分的には電話なんか昔の携帯で十分なんですが、SIMフリーだと安いですから買いました。でもさ、PCの機能をすべて詰め込んだ電話が普及するって、15年くらい前にはもうみんな予測してましたよね。
タバコの喫煙場所が激減して、東京オリンピックまでに値段を二倍にすることでとどめが刺されるようです。
個人情報に世の中うるさくなった、にも拘らず抜け道探すやり方でデータは取引されてるらしくて癪に障る。さらに言うとPC上のデータはグーグルとかウィンドウズに根こそぎ監視されてて、ある意味『1984』を超えた世界に突入。
観光地が中国人に占拠されるようになり、老人が中国人の実態を知ったせいでことごとく反中化。
10年前、ビル・ゲイツはスティーブ・ジョブズよりもずっと有名だった。アップル社のここまでの成功って、この10年間の日の丸家電の衰退を背景にしてたんですね。
などなど。
相当に意外なのは、紆余曲折ありましたけど10年前も安倍晋三が日本国総理だったことでしょうか。10年前の世界に戻って、「2016年暮れってこれこれこうなんだよ」って言った時、一番多くの人がびっくりするのって、このことかもしれません。支持率も50%超えてますしね。
そういえば、2011年に地震と原発のメルトダウンがありました。でも、だからと言って世の中の仕組みが大きく変わったかというと、そんなこともありませんでした。
自分的に言うと、10年前は私の実家はゴミ屋敷同然でした。家の中プラス敷地内の庭木プラス休耕田の荒廃の三重苦でした。今では人もうらやむ小ざっぱりしたところになりました。
10年前も『掃除力』とかの本は売れてましたし、掃除マニュアルの需要はあったのですが、断捨離とかミニマリストとかはまだ後の話だったように思われます。
つまりのところ、戦中戦後の困窮を幼少期に刷り込まれた世代は、物をため込む性癖が強い。その後の日本が先進国化してからの世代は、二代前のじっちゃんば~ちゃんが少ない備品で生活してたことを覚えているので、「親の世代だけゴミため込んでておかしいんじゃないか?」といい年齢になったときに気が付いた、親の洗脳が解けた。
断捨離とかミニマリストって、そういうことなんだと思われます。
10年後にはどうなっているか?に関しては、宗教の需要がなくなってぼっきり逝くだろうなという気がします。それ以外にも世の半分くらいの職業がなくなる可能性も言われています。
10年前も悲観的な話は多かったですが、ここまでではなかったですよね。
そして、社会の仕組みの根幹とでもいうべき資本主義も、10年後には今と同じ形を続けることは無理かもしれません。この点に関しては、なんかわくわくする要素を感じる
2016年の暮れであります。
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最近、にちゃんねるのまとめサイトで、ちょっとした名言を探すのが楽しみになってきました。
ついでに自分も名言めいたことぼそっと言ってみたかったりするのですが、
うちの父ちゃん工業高校卒、母ちゃん商業高校卒
その上どっちもとんでもない馬鹿のくせに
子供の俺には顔を合わせれば勉強勉強って言って
いい高校入って、いい大学入って、いい会社入って、いい嫁さん見つけて、いい子供生んで・・・・・
みたいにキチガイなレベルでがんじがらめに育ってきたよ
結果、無事ニートになれました
どうもありがとうございました
結果を伴う努力ほど楽しいものはないが、結果を伴わないだろうことが分かってる努力ほどつらいものもない。
ちゃんとした見通しが持てないのにただ徒労な努力をさせられた場合、
いい指導者に恵まれずやみくもに無駄な練習をさせられた場合、
結果を伴わない努力はとてもつらいので途中で放棄することになります。もしくは何のために努力するのかを考えることなしに機械的な「努力」をしても碌な結果を得られないのですから、それでしまいになります。
そういう態度が二世代にわたって続くとどうなるかというと、この二チャンネルのまとめサイトからの引用のような結果になりかねないわけです。
サッカーの解説で、「動きの質を高める」というようなことがよく言われますが、
勉強で結果を出すには、「頭の動きの質を高める」ことが重要であり、
何を何のためにやってるのかわからないまんまの勉強は、ほとんど効果がありません。
それどころか、十時間勉強してもこれだけしか点数が上がらなかったのだから、あと一時間余計に勉強してもほとんど効果ないだろう、と、負け犬根性が身についてしまいます。
多かれ少なかれ私たちはみんな、このような泣け犬根性をいろいろな局面で刷り込まれてから大人になるのですが、
「頭の動きの質を高める」と11時間かかって何の進展もなかったはずの問題に、10分でいきなりポンと解答が出たりするものです。
つまり、何のためにやるのか、それはどういう効果をもたらすのか、を常にはっきりさせておくことなのですが、
日本の通常の教育ですと、何の意味も考えさせずに、とりあえず、漢字の書き取りを一時間やらせる、計算問題を一時間やらせる、そんなのばかりです。
それって、単なる子供の管理に過ぎません。
それを何のためにやるのか、どんな効果があるのか、その先の目標は何なのかということについては、何も子供に考えさせないどころか、むしろ目隠しさせているようなものです。
とことん「努力」した結果のダメダメな親御さんだったら、子供に対しては無意味な努力はしなくてもいいといえるのかもしれないですが、
頭の動きの質が低いまんまの、そして中途半端なところで「努力」をとめてしまった親の場合ですと、
「私がこんなしょぼい現実に甘んじるのは、あの時、あんまり頑張らなかったからだ。地頭自体は悪いはずないのだ。だから、自分の子供は自分の二倍努力したら必ず成功するはずだ」
と思うものです。
ほんとに、ダメな思考回路ってこんなものなのですよね。
そして、こういうダメな思考回路を増長させるような要素がこの世の中にはあふれています。
そのうえ、こうやって無駄な「努力」、つまり頭の動きの質が低いままの努力を民族レベルで続けた結果が、サービス残業の過労死ではないか?
そんな風に思う次第です。
学校教育レベルで、結果の出ない努力というのは、「頭の動きの質が低い」努力に過ぎず、本来は指導者が矯正すべきものなのです。
アイドルになりたいとか、プロサッカー選手になりたいというような実現の可能性が極めて限られている夢に対する努力とは全然レベルが違うはずです。
『奇跡の人』
子供の時に父親に連れられて、二本立ての映画を見に行きました。
イギリスのファンタジー小説をアニメ化した『ウォーターシップダウンのうさぎたち』と併映で、
『大草原の小さな家』の主人公の女の子が主演の『奇跡の人』を見たのですが、
正直、子供の時には、あまりにも難しい内容でした。
今になってみると、
というか
Perfume経由で見ると、何を言いたかった映画なのかがよくわかるのですが、
子供の時の私には、難しすぎる内容でした。
三重苦の女の子が、手のひらを伝う水の流れと『W・A・T・E・R』という手のひらになぞられる触感が、一致したとき、
その女の子にとって世界が全く新しいものに感じられる瞬間がやってくる、
これって、子供を主役にした映画だけど、めちゃくちゃ難しい内容ですし、いい年の大人でも理解するのは難しい内容ですわな。
がっかりなのは、Perfumeの『miracle worker』という曲で、
何を言いたいのか全く理解できませんでした。
なんか、もう、中田ヤスタカ、本気出してないよね、という感じです。
ていうか、もともと、こんなもんだったのかもしれません。
ヘレンケラー的な三重苦を扱ったThe Who の『ロック・オペラ・トミー』
手押しポンプではなく、ピンボールの機械に触れることで、世界とのつながりを見出す主人公ですが、
その経緯ゆえに、世の中の毒の方向にどっぷりとはまっていくこととなります。
この動画で、興味深いのは ④分過ぎのところでエルトンジョンが帽子を脱いだ時に、
彼の頭がはげ散らかしているのがちらりとだけ見ることができます。
これ以降は、ハードな植毛でこういうのは見せないようになったんですけどね。
ある意味、この植毛技術者もミラクルワーカーなのかもしれません。
ロッド・スチュワート騎士に叙せられる ボブ・ディランノーベル賞送られる
今年一月にデヴィッド・ボウイが死んでから、それからプリンスも死にました。ロック界の大御所は今後五年間から十年間でバタバタ死んでいくんだろうなと思っていると、
ニュースの書き出しが「ロッド・スチュワートさんが・・・」と言うだけで、
ロッドも逝ったか!!と思ってしまいました。
ま、爵位の授与に関しては6月にすでに決まっていたのを私が知らんかっただけなんですが。
調べてみると、代表曲がけっこう各年代にばらけており、特別スランプの時期もないみたいで、デヴィッドボウイみたいな五年間で燃え尽きて、それ以降はいちおう続けていただけ、という人とは違いますけど、
逆に言うと、時代の先端に立ったことのない人、という感じもします。
まあ、わたし、武道館でライブ見たことあります。
71歳、もともと体強いんでしょう、それにドラッグやってなさそうですから、もしかするとまだまだ生きる、私よりも長生きするかもしれません。
それと比べると、ボブ・ディランって病院に救急搬送されたことがあり、あわや死にかけたこともある人ですから、
「あ、逝ったか」と普通は思います。
が、ノーベル賞受賞でした。
もっとも、十五年くらい前からノーベル賞の候補に挙がっているって言われてましたから、受賞はそんなに不思議でない。
彼若い時不摂生してたはずですから、生きてるうちにノーベル賞を、という流れになったんでしょうか。
わたしは、
ボブディランの曲、60年代のものは大体知ってます。いろんな人がカバーしてそれで有名になった曲もいっぱいあります。ロッドスチュワートもアルバムごとに一曲カバーしてます。
70年代のものは、半分くらい聞きました。
80年代以降の曲はまるで知りません。
で、これをきっかけに、ネットでボブディランの代表曲って10年以内の間に集中していて、それ以降のキャリアは「以前はすごかった人で四十年、なんか日本でいうと現在の美輪明宏みたいな立ち位置」なのかな、と思って調べたんですけど
どうも、そんな感じです。
ノーベル文学賞って、作家に対して贈られるんですが、一応その対象作品みたいのがあると思ってたんですよ。川端康成なら「雪国」みたいな感じで。
ボブディランだったら、どうなるんだろう?アルバムが受賞対象になるのだろうか?
そしたらどの作品なのだろう?
『追憶のハイウェイ61』か『ブロンド・オン・ブロンド』しかないだろうな。でも、それって50年以上昔の作品よ。
74歳のじいさんに24歳の時の作品を対象にして、ノーベル賞授与ってのもきつい話です。
www.youtube.comhttps://www.youtube.com/watch?v=mYajHZ4QUVM
こうなんでしたら、
経歴のピークは10年ぐらいの間でもキャラのあまりにもの存在感に、その後何十年も業界に居場所が確保できてきて、人々から一目も二目も置かれ続けてきた人に、『美輪明宏賞』というのをあげるのが正しいやり方なのではないかという気がしてきました。
というか、ロックというかポップミュージックの存在自体が『美輪明宏賞』の対象であって、ボウイとかプリンスとかディランの個人的問題や責任ではなく、ロックやポップミュージック自体が燃え尽きて燃えカスになってるのに、いまだにそれなりに居心地のいい場所を用意されていて、斜陽凋落なのだけれど、代替品もないから存在感それなりに放ってる、
そんな気がしました。